SATELLITE ARCHIVE

// 月の重力・地球大気・太陽摂動を使って飛ぶ · 1990-007A

ひてん
HITEN / MUSES-A

月を詳しく観測する前に、「月へ狙って飛び、重力を借り、少ない推進剤で周回へ入る」技術を一機で試した日本初の月探査機。10回の月スイングバイ、2回の地球エアロブレーキ、太陽摂動を使う低エネルギー遷移を重ね、最後は約80 m/sの噴射で月周回へ入った。

10
月スイングバイ(回)
2
地球エアロブレーキ(回)
1.35百万 km
最大遠地点
1993-04 制御衝突🇯🇵 ISASスピン安定工学実験機

01基本情報

262 kmから28万6,000 kmまで伸びる初期楕円軌道を、月・大気・太陽の作用で組み替えた。

打上げ1990-01-24 20:46 JSTM-3SII-5 / 鹿児島宇宙空間観測所
開発・運用ISAS宇宙科学研究所(現 JAXA)
国際標識1990-007A打上げ前名称 MUSES-A
質量197 kgハゴロモとヒドラジン42 kgを含む
外形直径1.4 m × 高さ0.79 m円筒形スピン衛星
初期軌道近地点262 km・遠地点286,000 km傾斜角30.6°・周期6.7日
姿勢スピン安定 約20 rpmスピン軸は黄道面にほぼ垂直
孫衛星ハゴロモ 約11–12 kg固体モーターとS帯送信機を持つ分離機
主搭載物MDC・光学航法系工学データはパケットテレメトリで送信
運用終了1993-04-10 18:08:45 UTC月面フルネリウス付近へ制御衝突(日本時間11日)

02ミッション

大きな軌道変更をすべてエンジンに任せず、月の重力、地球大気、太陽の摂動を順番に使う飛行実験だった。

28万6,000 kmの遠地点で月に会う

M-3SII-5はひてんを近地点262 km・遠地点286,000 km、周期6.7日の地球楕円軌道へ投入した。遠地点は月軌道の内側だが、月の位置に合わせて小さな補正を重ねれば接近できる。ひてんは月の前後を通り分け、地球に対する速度ベクトルと次の遠地点を組み替える月スイングバイを計10回行った。地球周回の進行方向を連続させたまま、月の重力で飛行方向を曲げる操作である。

ハゴロモは光を残したが、成否は確定できない

孫衛星ハゴロモは1990年3月18日、月から16,472 kmの位置でひてんから分離された。独自の固体モーターで減速し月周回投入を試み、地上では燃焼の閃光を観測した。S帯送信機は分離前の2月21日に故障しており、軌道データは受信できなかった。観測から言える成否は「月周回へ入ったと考えられる」までである。

高度125 kmと120 kmで、速度を少しだけ削る

1991年3月19日、ひてんは地球近地点を高度約125 kmまで下げ、大気抵抗で約1.7 m/s減速した。3月30日には約120 kmを通り、約2.8 m/sの減速を測った。薄いチタン外板と耐熱ポリマーの断熱材で機体を守り、加速度計と温度計で空力・加熱を実測した、深宇宙機として世界初のエアロブレーキ実験である。

太陽摂動で入口を作り、約80 m/sで月周回へ

通常の直接遷移では残燃料が足りないため、ひてんは遠地点を最大約135万 kmまで広げ、太陽の重力摂動が効く領域へ出た。長い経路で月への接近速度を下げる弾道捕獲型の遷移は、ホーマン型に比べ月周回投入の速度増分を約18%減らした。1991年秋に月近傍へ戻り、L4・L5近傍を含む地球—月系を飛行した後、1992年2月15日に約80 m/sの減速噴射を行ってひてん本体を月周回軌道へ入れた。

月を回ってから、観測地点を選んで衝突する

月周回期にはMDCで月近傍の微粒子を測り、近月点・遠月点を持つ軌道を1年以上周回した。運用末期には周回を続けながら近月点を下げ、1993年4月10日18:08:45 UTC(日本時間11日)、周回方向の速度を持ったままフルネリウス・クレーター付近の月面へ制御衝突した。

  1. 1990-01-24
    高楕円地球軌道へ
    近地点262 km、遠地点286,000 km、周期6.7日で飛行開始。
  2. 1990-02-21
    ハゴロモ送信機が故障
    分離前にテレメトリ確認手段を失う。
  3. 1990-03-18
    ハゴロモ分離・月接近
    固体モーターの燃焼光は観測、周回成否は電波で確認できず。
  4. 1990–1991
    計10回の月スイングバイ
    月の前後を通り、地球周回軌道の遠地点と向きを変更。
  5. 1991-03-19 / 30
    2回の地球エアロブレーキ
    高度約125 kmと120 kmを通過し、約1.7 m/sと2.8 m/s減速。
  6. 1991年
    低エネルギー遷移へ
    遠地点を最大約135万 kmまで伸ばし、太陽摂動を利用。
  7. 1991-10-02
    月近傍で弾道捕獲
    接近速度を抑えて月圏へ戻り、L4・L5近傍も飛行。
  8. 1992-02-15
    ひてん本体を月周回へ
    約80 m/sの減速噴射で月周回軌道へ投入。
  9. 1993-04-10 UTC
    月面へ制御衝突
    周回方向を保ち、フルネリウス付近の月面へ接触。

03エピソード

数字の小ささと、到達距離の大きさが同居する。ひてんの飛行は、軌道力学が推進剤の代わりになることを実物で示した。

1月24日の楕円を、3月19日の月へ合わせる

ISASは1990年1月24日20時46分、「ひてん」を近地点262 km、遠地点28万6,000 km、周期6.7日の地球周回楕円へ投入した。月まで一気に加速する方式ではないため、約二か月後の月通過と遠地点の時刻・方向を一致させる軌道修正が難所になる。運用班は1月25日から補正を重ね、3月19日05時04分09秒に月へ約1万6,500 kmまで接近した。時間と月の公転を推進剤の代わりに使い、日本初の月スイングバイを成立させた。

12 kgを月へ放ち、通信喪失を成功断定から切り離す

1990年3月18日、「ひてん」は月から約1万6,472 kmの地点で、質量12 kgの子衛星「はごろも」を分離した。小さな固体モーターで約2万2,000 km×9,000 kmの月周回軌道へ入れる計画だったが、分離後まもなく通信が失われ、軌道をテレメトリで追えなくなった。NASAとISASは投入操作の実施と、後の軌道確認を区別して記録している。電波がない以上、燃焼の兆候だけから完全成功と断定しない判断が、成果と不確実性の境界を残した。

高度124 kmの空気を、世界初の軌道制御装置にする

月スイングバイを終えた1991年3月、ISASは「ひてん」を月距離約36万 kmの遠地点から地球へ落とし、高度125 kmを狙うエアロブレーキへ進ませた。わずかな航法誤差で濃い大気へ入り過ぎれば機体を失うため、正面をチタン薄板と耐熱高分子フィルムの積層材で覆い、加速度・温度・空力加熱を同時に測る設計にした。実際の最低高度124 kmで減速を計測し、続く120 km飛行にも成功したことで、燃料でなく大気抵抗を使う深宇宙機初の軌道変更を実証した。

太陽重力で18%を節約し、1992年に母機も月へ入る

当初の主要実験を終えた「ひてん」を月周回へ入れるには、残る推進剤だけで通常のホーマン遷移を行うのが厳しかった。そこでJPLとISASの軌道チームは、地球・月だけでなく太陽重力の摂動も利用し、弱安定境界をつなぐ遠回りの経路を選んだ。この方法は月周回投入に必要な速度変更を約18%減らし、1991年10月2日に月へ低速で到達、1992年2月15日の周回投入へつながった。急ぐ代わりに重力へ時間を働かせる判断が、母機を追加の月探査へ延命した。

04軌道

地球—月系の反復飛行、地球近地点の大気通過、太陽摂動を使う大回り、月周回と終端を、それぞれの時間・距離尺度で追う。

A · 地球—月反復飛行 262 × 286,000 kmから月接近を反復 / 10回 地球 ハゴロモ分離 月の前後を通り分け、次の地球楕円の遠地点と向きを変える B · 地球近地点の大気通過 1991-03-19: 約125 km / 03-30: 約120 km 1回目 −1.7 m/s 2回目 −2.8 m/s 地球大気 C · 太陽摂動を使う低エネルギー遷移 遠地点 最大約1,350,000 km / 月周回投入Δvを約18%低減 地球—月系 太陽摂動で軌道を曲げる 長い飛行時間で月への接近速度を下げ、L4・L5近傍も通過 D · 月周回投入から制御衝突 1992-02-15 約80 m/s噴射 → 1年以上周回 → 1993-04 月周回 フルネリウス付近 2周を同じ向きで回った後、接線方向を保って月面へ接触
月接近・月周回 1回目エアロブレーキ 2回目エアロブレーキ 太陽摂動遷移 月面接触点

05搭載機器・分離機

MDCは科学観測、光学航法系は位置推定、計算機と通信系は運用、ハゴロモは独立して飛ぶ孫衛星。それぞれは別の枝で働く。

MDC

ミュンヘン塵検出器

粒子衝突で生じる電荷から宇宙塵を測る科学機器。地球磁気圏尾部、月近傍、L4・L5近傍を含む飛行経路で微粒子環境を記録した。

ONS

光学航法系

カメラ像から月や恒星の方向を抽出し、画像処理装置で航法情報へ変換。地上の測距・ドップラー航法を補う独立した工学実験。

OBC / TM

耐故障計算機・パケット通信

コマンド、時刻、姿勢、機器データを管理し、CCSDS形式のパケットテレメトリで地上へ送る。深宇宙運用そのものを試す搭載系。

HAGOROMO

孫衛星ハゴロモ

約11–12 kgの分離機。固体モーター、S帯送信機、独自電源を持ち、分離後に月周回投入を単独で試みた。

06設計

直径1.4 mのスピン衛星に、月航法、42 kgのヒドラジン推進系、エアロブレーキ計測、独立分離機をまとめた。観測機器を増やすより、飛行技術を確かめる構成である。

機体固有配置 機能の接続 ハゴロモ 独自の固体モーター S帯送信機・電源 HITEN / MUSES-A 直径1.4 m × 高さ0.79 m 側面太陽電池 / 約110 W ヒドラジン推進系 搭載量 42 kg OBC / TM 耐故障・パケット 主・微小推力ヒドラジンスラスタ MDC ONS 薄いチタン外板 + 耐熱ポリマー断熱材 スピン安定 約20 rpm 円筒側面の太陽電池、上面の分離機、内部の推進・航法機能 側面太陽電池 約110 W 日照時発電 電力調整・予備電池 日陰時もバスを維持 給電 太陽センサー 星スキャナ / 地平線計 光学航法系 ONS 月・恒星像 / 画像処理 姿勢・航法計算 スピン軸 / 軌道決定 ヒドラジンスラスタ 姿勢変更 / 軌道補正 / 投入 MDC 宇宙塵イベント OBC / 記録 時刻・工学・科学パケット S帯通信系 コマンド / テレメトリ 分離機構・母機コマンド 分離前だけ機械・電気接続 ハゴロモ(分離後) 独自電源・S帯送信機 固体モーター

回転が姿勢の基準になる

機体は約20 rpmで回転し、角運動量で姿勢を安定させる。太陽センサー、星スキャナ、地平線検出器がスピン軸を監視し、必要なときだけヒドラジンスラスタで向きを調整する。光学航法系は別の入力として月・恒星の画像を処理し、地上航法を補った。

外力と推進系の役割を分ける

42 kgのヒドラジンは姿勢変更、軌道補正、月周回投入を担う。一方、長距離の軌道エネルギー変更は月スイングバイ、地球大気、太陽摂動が受け持った。外力で入口を作り、スラスタで精度を仕上げる設計である。

エアロブレーキは熱構造も実験する

薄いチタン外板の内側に耐熱ポリマー断熱材を置き、加速度計と温度センサーで大気通過時の減速と加熱を測った。航法だけでなく、構造・熱・計測を一つの実験として閉じていた。

ハゴロモは分離後に独立する

分離前は母機の機構とコマンドにつながり、分離後は固体モーター、電源、S帯送信機を使って単独飛行する。MDCは科学データ、光学航法系は航法情報、ハゴロモは月周回投入をそれぞれ担当した。

08関連文献

軌道値、エアロブレーキ、弾道捕獲、終端時刻を一次資料から確認できる。

  • ISAS「ひてん」の月スイングバイ実験
    初期軌道28万6,000 km、ハゴロモ分離、月接近運用の日本語公式記録 · ISAS/JAXA
  • 「ひてん」のエアロブレーキ実験
    2回の通過高度、減速量、温度・加速度計測、熱構造の公式技術史 · ISAS/JAXA
  • Aerobrake Navigation of the Japanese MUSES-A (Hiten) Spacecraft
    エアロブレーキ航法の予測と実測をまとめたNASA Technical Reports Server収録資料 · NASA NTRS
  • Sun-Perturbed Earth-to-Moon Transfers with Ballistic Capture
    太陽摂動遷移、約18%の投入Δv低減、ひてんへの適用 · NASA NTRS
  • ISASニュース No.154「ひてん月面に落下」
    月周回期、最終軌道、フルネリウス付近への制御衝突記録 · ISAS/JAXA PDF